はりこ~

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ユダヤからのナチス略奪品

ナチス略奪美術品」の深い闇――福田直子(ジャーナリスト)

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新潮45 2016年1月号 2015/12/18発売

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2年前、ドイツで人目を避けるように暮らしていた老人の家から、大量の「いわくつき美術品」が見つかった。数奇な人生から浮かび上がる「ナチス負の遺産」――。

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 80歳の「ファントム」

 この秋、ナチスの略奪美術品を扱った2作の映画が日本でも公開される。戦時中の連合軍特殊部隊による奪還作戦を描いた「ミケランジェロ・プロジェクト」(11月6日公開、原題:The Monuments Men)と、クリムトの名画の返還を求めて訴訟を起こしたユダヤ人女性の実話を基にした「黄金のアデーレ 名画の帰還」(11月27日公開、原題:Woman in Gold)である。

 世界的な関心の高まりを感じるが、実際にはナチスが略奪した美術品60万点は、今なお行方がわからないものも多い。「美術品は今も誰かの家の居間にあるはず」、美術関係者の間ではそう囁かれていても、現実に表に出てくることはほとんどなかった。

 ところが、ちょうど2年前、ドイツ・ミュンヘンで、そうした“美術界の噂”を裏付ける事件が起こった。

 2013年11月、「ナチスに略奪された名画が大量に発見される。その価値10億ユーロ(約1330億円)相当か」というニュースが、世界中をまたたくまにかけめぐったのだ。その後、評価額は大幅に下方修正されたが、戦後70年近くになってこのような「宝の山」が個人宅で発見されたのは前代未聞であった。

 ミュンヘン市北部、若者に人気のシュバービング地区の繁華街をややはずれた住宅街。一人暮しの高齢者男性宅には、所狭しと1280点の美術品が保存されていたのである。

 ミュンヘンといえば、ナチス国家社会主義ドイツ労働者党)の発祥地。かつてこの都市から、独裁者による恐怖政治がヨーロッパ中に広がった。

 この「偶然の発見」の発端は2010年9月22日に遡る。チューリッヒからミュンヘンへ向かう列車の中、ドイツの税関職員がある乗客の持ち物検査を行った。

 上品な服装をした白髪の高齢の男性は、はじめ「申告する物はない」と述べた。が、そわそわしたそぶりを不審に思った職員がトイレで検査すると、真新しい紙幣で約9千ユーロ(約120万円)を所持していた。その額は国境を越えて合法にドイツに持ち込める現金の上限額、1万ユーロをやや下回る。そのこと自体は法律違反ではないとはいえ、ドイツの税関はあやしいと思うと容赦なく調べまくる。

 2年後の2月28日、税関は男性が住むミュンヘンのアパートを早朝に家宅捜索した。脱税容疑である。そこで見つけた美術品の山に、さすがの税関も戸惑ったようだ。大量の美術品を没収するため、後日、トラックを用意。捜査には数日かかった。

 捜査から2年近く、週刊誌「フォークス」がスクープするまでこのような「発見」が発表されなかったことについて、ドイツ政府はユダヤ人団体をはじめ、激しい抗議を受けた。美術品のうち、458点はナチスユダヤ人から没収、あるいは二束三文で買い上げた「略奪美術品」の疑いがあったからだ。

 アパートの住人の名前はコルネリウス・グルリット、無職、80歳。住民登録地はオーストリアで、アパートはグルリットの母親(故人)が戦後、購入したものだった。アパートの周辺はゆったりとした敷地で、緑が深く整然としているものの、建物は典型的な1950年代のコンクリート製マンションで今はあまり人気がない。

 人々の関心のまととなったのは、美術コレクションの「持ち主」の奇妙さである。

 グルリットは生涯、職業についた形跡もなければ、健康保険にも入っていない。年金の申請もしてなければ、不動産税以外は納税もしていない。収入がないため、親の財産で生活している。いわば、「ひきこもり高齢者」である。

 グルリットへの単独インタビューに成功した週刊誌「シュピーゲル」によれば、たまの外出というと、夕方、タクシーで市内に衣料品や食料品を買いに行くときか、数ヶ月に一度、医師の診察を受けるため数百キロ離れた街へ電車で行くときだけだ。その場合、古めかしいが丁寧なドイツ語で、タイプ清書した手紙をホテルに郵送し、宿泊の確認をする。医者の数が過剰といわれるミュンヘンをわざと避けるように遠方の医者へ通うだけでも奇異だが、グルリットには交友関係もなければ、結婚したこともなく、子供もいない。3歳下の妹は3年前に亡くなり、世間からは隔絶されたアパートで、美術品を眺める毎日。テレビは受信料を払わなければならない(そうすると社会との接点ができてしまう)ために持たず、ラジオと新聞からときおり世の中の動きを知るぐらいで、自分の存在を世間に知られることを拒むような生活だった。マスコミはグルリットを透明人間、あるいは「ファントム」(幽霊)と呼んだ。

 父は有名な画商

 グルリットの経歴はざっとこうだ。ハンブルクで小学校に通い、ドレスデンギムナジウム(中・高一貫教育校)に通ったが、大学入学資格試験のアビトゥアはデュッセルドルフで受けた。戦後はフランクフルトとシュトゥットガルトの中間にある寄宿学校に送られ、ケルン大学では哲学と音楽理論を聴講したが、卒業はしていない。成人するまでドイツ国内の都市を転々としている。

 税関での取調べでグルリットは、「美術コレクションは両親からの遺産にすぎない」と主張した。この人物を多少でも理解するためには、まず、父親の経歴を語らなければならない。

 グルリットの父は有名な画商であり、美術品コレクター、ヒルデブラント・グルリット(1895~1956)であった。

 実は、「グルリット」は美術界でよく知られた名前だ。ヒルデブラントの父親は著名な建築史家、コルネリウス・グスタフ・グルリット(1850~1938)で、ドレスデン郊外には彼の名前の道も現存している。「グルリット」は日本のクラシックファンにもよく知られた名前で、マンフレート・グルリット(1890~1972)はヒルデブラントのいとこ。日本に初めて本格的なオペラを紹介した指揮者兼作曲家であった。グルリット家の親戚には作曲家、指揮者、学者、画商、画家などが名をつらねている。

 若きヒルデブラント・グルリットの活躍はめざましかった。ベルリンで美術史を学び、博士号を取得、29歳にしてザクセン州ツヴィッカウ博物館の館長に抜擢された。

 ツヴィッカウ博物館は由緒あるザクセン王家のコレクションを擁していたが、館長に着任早々、ヒルデブラントはコレクションを見直し、現代美術の新潮流を取り入れるという大胆な改革を試みた。ケーテ・コルビッツの彫刻、ペッヒシュタイン、カール・シュミット=ロットルフ、エミール・ノルデなどの作品を紹介し、ココシュカ、リーバーマンカンディンスキーなどの作品も購入。時代を先取りしたような彼の「改革」はたちまち知れ渡り、「勇気ある現代美術の専門家」と一部で称賛された。

 ところが台頭しつつあったナチス党の前身団体のひとつ、カンプブント(闘争連合)から目をつけられ、ナチスの圧力によりツヴィッカウ博物館の館長を解任されたヒルデブラントは知人の推薦でハンブルクの美術館へ移籍。ここでもクビーン、ファイニンガー、アンソールなどの現代美術作品を購入。ユダヤ人芸術家も擁護していたヒルデブラントは、「美術界のユダヤ化を進めている」と糾弾され、1933年2月、ナチスが政権を掌握すると、ハンブルクでも館長の職を追われた。ヒルデブラントは祖母がユダヤ人、つまりナチス流にいえば、「ユダヤ人との混血」に属する。ナチスにより、強制収容所に送られてもおかしくなかったはずだ。彼がナチスに迫害されなかったのは、美術に関する知識とネットワークがナチスにとって有益であると判断されたからにちがいない。

 美術館長を解任されたヒルデブラントは画商に転向したが、ナチスヒルデブラントの画廊を閉鎖。美術品を売ることさえ禁止した。ここで「転向」が起こったようだ。

 1937年以降、第二次世界大戦終戦までヒルデブラントは、ナチスの「退廃美術品没収計画」の4人の責任者の一人として、全国から没収された美術品の評価、売買に携わることになる。ナチスの「御用画商」となったのだ。つまり、ヒルデブラントは、「追われる者」から「追う者」へ立場を変えたのである。

「御用美術家」の言い分

 一方、ナチス党が政権を掌握するやいなや、幹部は美術品の収集に奔走するようになる。特に画家になれなかったヒットラーは、美術や建築に対する執念を持ち続け、ナチスのナンバー2のゲーリングも次々に美術品を集めていった。ヒットラーと異なり、ゲーリングゴーギャンゴッホなど印象派の作品も収集していった。

 ナチス幹部は、ゲーリング以外、古典的なアルテ・マイスターや肉体美を強調した北方美術様式を重んじ、徹底的に現代美術を嫌った。印象派や近代美術の新潮流に精神学用語の「退廃」という言葉をあてて、劣った美術品として組織的な回収をしたのはナチス以外に例がない。

 こうして退廃美術の烙印を押された約2万点の美術品が全国から没収され、ベルリンの貯蔵庫に集められた。しかし、利用方法を考えないと宝のもちぐされである。これをどのように扱うかについては美術専門家が必要となった。

 作品はまず3つに分類された。市場価値がなく破壊されるべき作品、とりあえずは倉庫に保存する作品、そして、戦争資金のもととなる外貨を稼ぐため外国に売られるべき作品、である。ナチスは欧州の美術史さえ書き換えようとしたのだ。

 第二次世界大戦の勃発後はさらに大規模な略奪計画が実行されるようになる。占領地域からはユダヤ人収集家のコレクションなどが次々に「帝国出国税」として税関に差し押さえられ、略奪は組織的になっていった。資産価値があるとみられるものは美術品以外に、食器、宝石、書籍など、個人宅以外にも図書館、公文書館、教会、修道院から容赦なく没収した。

 略奪に関する「総統命令」は占領下となったフランスでも実行され、のちにポーランドをはじめとする東ヨーロッパに拡大していった。1941年から44年までにフランスからドイツへ鉄道で運ばれた美術品だけでも4千箱を超えたという。

 ヒットラーが青年時代を過ごしたオーストリアドナウ川沿い、小都市リンツに世界最大の美術館を建設するという「リンツ特別計画」も動き出した。こうした中、美術品の目利きとしての「ナチス御用美術家」となったヒルデブラントは美術品の価値を査定し、ドイツ国外で売り、外貨を稼ぐために国外の買い手を探す役目を請けおい、多忙を極めることになる。

 戦後、ヒルデブラント・グルリットはこう述べている。

「私は印象派などの現代美術品をナチスから救うためにいろいろな方策をとった」と。ヒルデブラントナチスに与するふりをし、印象派などの美術品が保存されることに心血を注いだという。ところが、ナチスの口座に売り上げ金を送金する一方、ヒルデブラントはせっせとコミッションを稼ぎ、密かに自分の美術品コレクションも増やしていった。

 グルリットとその家族は、敗戦間際にドレスデンから南部ドイツの知人の城へ逃れていたところ、米軍に捕らえられ、持っていた美術品も没収された。その取調べを受けたとき、書面で戦禍を免れた自分のコレクションの所有の正当性を述べ、美術品をどのようにして入手したかを説明した。

 ヒルデブラントが連合軍に書いた1950年12月13日付けの手紙には、「ほとんどの作品は私が直接、画家たちから購入したもので、ナチスの手から保護しようとしたものだ。ユダヤ人の所有であった絵画はひとつもない」とあった。

 連合軍に押収された所蔵コレクションは5年後、すべてヒルデブラントのもとに返還された。ヒルデブラント・グルリットのようにユダヤのバックグラウンドを持ちながらナチスに与した人物をどう裁くべきであったのか。戦後の復興が優先された時代に、こういった「グレーゾーン」の人物たちは、なんのおとがめもなくもとの仕事につき、「自分たちはナチではなかった」と、大手を振って生きていく。戦後ドイツの立て直しのためにはナチス時代の経歴を大目にみるという連合軍の追及のあいまいさを利用し、グルリットも「経歴ロンダリング」に成功した。

 それは美術界だけでなく、政界、経済界、司法界など専門知識とネットワークを擁する特殊な世界でも同じで、旧ナチス関係者たちは互いにかばいあい、便宜をはかった。

 グルリットが所蔵していた美術品の画家のリストには錚々たる名が並ぶ。デューラーティエポロドラクロアロダン、ベックマン、リーバーマン、ディックス、ココシュカ、ロートレック、マッケ、ピカソシャガールルノワールセザンヌゴッホピサロ、コロー……。北斎歌麿など、日本の浮世絵も15点ほど含まれている。当局の発表によれば、美術品は、額縁入りの作品が121点、ほとんどが額縁なしで、油絵は少なく、素描、デッサン、水彩画、リトグラフ、版画が多い。その中には、戦前、ロンドンで焼失したと思われていた松方コレクションの作品がまぎれこんでいるのではないかと、上野の国立西洋美術館にもコンタクトが入ったという。

 ともかくドイツ政府は、「タスク・フォース」を設立し、ドイツだけでなく、ハンガリーイスラエル、アメリカ、フランスなどの美術研究者や法律家など専門家を招集した。タスク・フォースの任務は主に美術品の「来歴調査」である。

 美術品の歴史を調査する「来歴調査」(プロブナンス)とは、作品が完成し、画家のアトリエから誰によって購入されたか、最初の持ち主を調べ、現在にいたるまでどのような経路を経てきたか、「作品の足どり」を調べるという探偵がやるような仕事だ。ナチスが台頭する以前に遡り、個々の所有者を特定するためには、多大な時間と労力、専門性が必要となる。「物言わぬ美術品」には、ときには持ち主や購入者が押したスタンプが残っていることもあるが、大半のケースではなんらかのヒントを求めて古文書、書簡など膨大な資料にあたらなくてはならない。

 日本でも見つかっていた

 略奪美術の研究者たちによれば、ナチスが合法、非合法な手段を駆使し、各地から没収した美術品は60万点という膨大な数だ。戦勝国ソ連や米国の兵士たちがこっそり祖国に持ち帰った美術品も多数含まれる。

 ある美術専門家は「ナチスが略奪した美術品は、今もどこかの家の居間にかかっている。“グルリット事件”は決して特殊なケースではない」という。

 ところで「ナチスの略奪美術品」など日本には関係ないと思われる読者の方も多いだろう。実はナチス美術品は日本でもみつかっている。

 2001年1月、京都の清水三年坂美術館からパウル・クレー作、水彩画「飛ぶ街」(あるいは、「異国の街のひとけのない場所」1921年)が持ち主のユダヤ系ロシア人、ソフィー・リシツキー=キュッパース(1891~1978)の遺族に返還された。この作品は退廃美術として1937年にナチスにより没収され、1940年にナチス御用画商の一人、メラーの手中から鉄道、船、飛行機に乗せられ、世界中を転々とした。この絵はミュンヘンハノーファー、ベルリン、パリ、サンフランシスコ、スイスの小都市から東京へ行き、1997年にオークションで村田製作所の村田雅明氏が落札した。キュッパースの遺族が日本にあることをつきとめると、すぐさま返還交渉が始まったが、どのような交渉があったかは公表されていない。なお、この件は調停により落着している。

 しかし、もうひとつのケースは裁判に持ち込まれた。

 印象派のアルフレッド・シスレー作、「春の太陽、ロワン川」(1892年)が日本の美術展に出品されていることを知ったパリ在住のユダヤ人コレクターの子孫が「祖父が1900年に購入し、ナチスによって奪われた盗品だ」としてフランスで刑事告訴した。訴訟は6年間続き、2004年3月に返還されている。返還に応じた日本人コレクターの名前は明らかにされていないものの、シスレーの油絵は時価3百万ユーロ(4億円以上)と伝えられている。

 かつてバブルの時代に、「絵画は動く不動産」といわれ、ジャパン・マネーが大量に美術品へと流れた。日本の美術バブルは極めて短かったが、「私が死んだらゴッホルノワールの絵とともに焼いてくれ」と言った大昭和製紙名誉会長、斉藤了英(故人)の発言は物議をかもした。美術品は「一人の人生を超えて存在すべき共有財産」であり、次の世代に受けついでゆくために保管するべき、ということは、個人所有者によっては全く念頭にないようだ。

 遺言は「スイスへ寄付」

 2014年5月6日、心臓病を病んでいたコルネリウス・グルリットはミュンヘンの自宅で静かに息をひきとった。81歳だった。

 グルリットが亡くなる3ヶ月前、ザルツブルクのグルリット別邸からもまとまった美術品が238点、みつかった。マネ、ルノワールリーバーマンなどの作品で、ミュンヘンのコレクションと同じ趣向だ。

 実はこの数年間、ドイツと隣り合わせのオーストリアでも略奪美術品に関する問題がたびたび浮上している。冒頭で紹介した映画「黄金のアデーレ」は、ユダヤ人としてオーストリアを追われたマリア・アルトマンが8年かけて争った結果、クリムトの絵を返還してもらうという筋書きだ。このケースでは、アルトマンが長命であったことと担当した弁護士が作曲家アーノルト・シェーンベルクの孫で決して屈しなかったということが幸いしたが、絵画をめぐる訴訟は時間と経費がかかり一筋縄ではいかない。

 略奪美術品は、まずその美術品が家族の所有物として証明されなければならない。美術品をめぐる訴訟では遺族は年をとり、弁護士費用が重なってゆく。「ウィーンのモナリザ」とオーストリア人に呼ばれたアルトマンのおば、アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像画は、返却されたあと、訴訟費用を捻出するために資産家のロナルド・ローダー氏に購入され、現在はNYの美術館に収められている。

 かつてヒットラーが世界最大の美術館を建てる夢を見た街、ドナウ河畔の小都市、オーストリアリンツでは、12年前、斬新な建築で「レントス美術館」がオープンした。コレクションの根幹となる美術品は、グルリット家の親戚、ヒルデブラントのいとこのヴォルフガング・グルリット(1888~1965)による寄付から成り立っている。レントス美術館の前身となる美術館は、戦後、数年間は「ヴォルフガング・グルリット美術館」と呼ばれていたが、なぜか美術館の名称は改名された。

 コルネリウス・グルリットもヴォルフガングのように、自分のコレクションを美術館で展示したいとは思わなかったのだろうか。それともコレクションの多くの出所が「いわくつき」ということを自覚して、そのために「ひきこもり」生活を選んだのだろうか。

 グルリットの遺書によれば、コレクションはスイス、ベルンの美術館にすべて寄付するとのこと。なぜスイスなのか。執拗に追及したドイツの税関やマスコミに対するあてつけという見方もある。

 スイスは父、ヒルデブラントがせっせと通い、美術品を売っていた市場でもあった。また、スイスは美術品の来歴調査がおおまかなことで知られる。つまり「ナチスの美術品の過去」が追及されにくい、美術品の来歴がロンダリングされやすい、とも憶測される。

 ともかく、世の中がどう変わろうと、黙して語らなかったコルネリウス・グルリットの人生の目的はただひとつ。父親からひきついだ美術品コレクションを自己管理することだけだった。

 美術界では「価値のあるコレクションの存在」は常に意識されており、作品群が市場に出るのは遺品となったとき、ということは常識だ。ミュンヘン周辺の美術関係者のあいだでもグルリットのコレクションの存在は知られていた。にもかかわらず、これまで沈黙が保たれていた。もし、グルリットがスイスからの電車の中で税関に検査されなければ、一人の独居高齢者として自宅で絵に囲まれながら静かに往生し、「ナチス美術コレクション」は密かにオークションに出されていたかもしれない。「グルリット事件」発覚のため、どこかで盗難美術品の発覚を恐れ、新たにお蔵入りした美術品もあるかもしれない。

 ロンドンで美術品を元の所有者に返還する仕事をしているアン・ウエッバー氏は言う。

ナチスによる略奪美術品のうち今も9割は行方がわかっていないし、ドイツは充分な策をとっていない」と。ウエッバー氏の所属する「欧州略奪美術品コミッション」は15年前に設立されて以来、3千点の美術品を元の持ち主へ返還することに成功している。インターネットの普及もあり、返還運動は活発になったとはいえ、略奪美術品に関しては、大部分が謎につつまれたままだ。ドイツ側の情報開示についても問題があるし、元の持ち主への返還は遅々として進んでいない。ユダヤ団体は略奪美術品を「(ドイツによる)最後の囚われもの」とも呼んでいる。

 果たして「グルリット事件」でなにかが変わるだろうか。

 ドイツ政府の問題解決、調査の遅延については、「最後のアーリア化だ」とある歴史家が糾弾する。ドイツ政府は「ドイツの文化資産」が国外へと流出しないよう、舞台裏で模索しているとも伝えられる。

「ドイツの“非ナチ化”には少なくとも4世代を要する」と、ある美術記者は言う。ナチスを生きた世代、親に反発あるいは無言で過ごした世代、祖父たちの行為を薄々知っている世代、そしてナチス時代の曾祖父の実際の行為を全く知らない世代、ということになるだろうか。

 一人の老人の挙動不審なふるまいで明らかになったナチス負の遺産。美術品に限らず、ドイツはナチスから逃れられない。

 ところでベルンの美術館は、グルリットの美術品を遺産として受け入れることで、2014年度は弁護士費用などに年間の予算以上の資金を費やし、財政は赤字に転落したと発表した。とりあえず、「グルリット・コレクション」は2017年、カッセルで5年ごとに開催される美術フェスティバル、「ドクメンタ14」で数十年ぶりに一般公開される予定だ。

福田直子(ふくだ・なおこ)
1960年東京生まれ。上智大学卒業後、エアランゲン大学にて社会科学を学ぶ。ニュース雑誌の編集に携わった後、フリーに。著書に『大真面目に休む国ドイツ』など。現在、ミュンヘン在住。